2010/02/23

森からの訪問者



(February 2010, Gunma, Japan)

雪が舞い降りると森は魔法に包まれる。
うさぎ、テン、くま、小さな虫たちも、
真白な世界がみんなをともだちにする。

2010/02/16

パンドラの箱


(February 2007, Brussels, Belgium)

パンドラは神に似せてつくられた美しい人間の女性だった。
ゼウスは、あらゆる災厄が入った壷をパンドラに与え、「けっして開けてはいけない」と忠告する。この言葉によって、パンドラは、おさえのきかない好奇心にとらわれてしまう。このことをゼウスは知っていた。
かくしてパンドラは壷を開けてしまい、あらゆる悪と災厄が世界に放たれた。たったひとつ、「未来を見通す災厄」だけが放たれることなく、壷の底に残された。

一説によると「未来を見通す災厄」が放たれなかったために、私たちは未来を予知することができず、運命を知ることもない。だから、人間は運命は自分で切開くことができると信じており、あきらめず、希望をもちつづけることができるという。

また他の説によると「未来を見通す災厄」が放たれずに残ったために、人間はけっして叶わぬ「希望」をもちつづけ、尽きることのない苦しみにとらわれてしまう。「希望」こそが最大の悲劇であり、人間はあきらめる知恵を永遠に失ったの だ。

2010/02/15

二十一年前


(January 2005, Torres del Paine, Patagonia, Chile)

TVのニュースに目が釘付けになった。
これまで日本で一番高い山は富士山だと信じられていた。その歴史的事実が突然、打ち破られた。女性キャスターの声が興奮で高ぶっている。埼玉県で六千メートル級の山が発見されたという大ニュースが伝えられていた。それだけではない、信じられないもう一つの出来事は、同じく埼玉県に海の存在が確認されたことだ。
埼玉に長年くらしてきた自分にとっても、沸きあがるような喜びだ。特徴のない漠然とした平野が広がり、風光明媚な山並みに縁がなく、もちろん、海はあるはずもなかった。その事実が、今日いっぺんにひっくり返ってしまった。なんとめでたいことだろう。素晴らしいニュースに気持ちが高ぶった。

報じるところによると、なんでもその山はあまりにも高く、周囲をおおう深い霧が晴れることがけっしてない。そして、あまりにも鋭く、針のように天空に突き出ているために、空からも見えないという。発見された海は山の裾野の深い霧の底に眠っている。その海はあまりにも静かで、音もなく、風もなく、においもない。海面の霧はいままで一度も晴れたことがない。

(January 2005, Torres del Paine, Patagonia, Chile)

この歴史的発見を祝って、山頂までの特別な観光列車が建設された。線路は山を螺旋状に巻きながら敷設されている。列車は三両ほどの短い編成で、黒部のトロッコ列車みたいな感じだ。押し寄せた観光客がさっそく列車に乗り込む。列車は針のような山頂からゆっくりと離れ、旋回しながら降下し始める。下界の景色は一面の霧の下でまったく見えない。列車は回転しながら降下し、次第に加速していく。徐々に遠心力がはたらいて、体が外に引っ張られるのを感じる。

おや、どうしたことだろう!?

次第に引っ張る力が強くなる。体が緊張してくる。手すりを握る手が汗ばみ、筋肉が硬直してくる。引っ張る力が強くなってきた。何としても手を離してはならない。必死に手すりにしがみつくが、外に引っ張る力はますます強くなり、耐え難いほどになる。乗客が悲鳴をあげ始めた。体が椅子から浮き上がり宙に舞い上がる。列車は深い霧を抜け、眼下に地上が見え始める。地上の風景が恐ろしいスピードで迫ってくる。列車は音をあげて加速し、乗客の手は次々と引き離される。振り切られて宙に投げ出された乗客たちは、まるで花びらのように優雅に回転しながら落下していく。

このままだと地面に叩き付けられてしまう。
手を離した方が良いのか!?どうする?どうする!
生き残る道はひとつしかない!
思い切って手を離し空に飛び出す。

2010/02/14

二年前


(October 2006, Tokyo, Japan)

北の方で何かが爆発した。
光一閃、街が砂塵になって舞い上がった。膨大な土煙が空に立ちのぼり、巨大なかたまりが猛烈な勢いで向かってくる。
「まずい!いそいで!
ビルの南側に身を隠して!
あっという間の出来事だった。
超高層のガラスがこなごなに吹き飛ばされる。街は赤茶色の嵐の中に飲み込まれ、地面に叩き付けられた。ガラスの破片が烈風になって吹き荒れ、
窓枠の鋼はちぎり飛ばされた。
一体何が起きたのか?
むき出しになった建物の骨組みが、衝撃の凄まじさを物語っていた。いたるところでビルが傾き、街は無惨に破壊されていた。

しかし、人々は懸命に生きようとしていた。
自ら傷つきながらも、となりの人を助けるために手を差し伸べようとしていた。
奇跡だった。一人も命をおとしていなかった。
私たちは生き延びたのだ。

2010/02/13

夢のインデックス


(July 2005, Stockholm City Library, Stockholm, Sweden)

脳の中には夢のインデックスが隠されている。
インデックスを見れば、自分がみた夢をいつでも引き出すことができる。
その「声」が話すところによると、言葉はそれぞれ、そこにつながっている夢のストックをもっている。ある言葉を思いうかべると、つながりのある夢の一覧表があらわれる。その「声」は説明をつづけている。しかし、話している人の姿はどこにも見えない。あたりには誰もいない。何も存在していない。何もない空間。宙にういているような感覚。
その「声」がいうとおり、言葉をひとつイメージしてみた。しかし、その言葉の一覧表には何も登録されていなかった。ほかの言葉でイメージしてみる。すると一覧表の中に、登録されていた夢が現れてきた。

「うまくいきそうだ。」

そう思ったところで目が覚める。

2010/02/12

命を削る金貨


(December 2005, Tokyo, Japan)

その金貨を手にした者は寿命が削り取られていく。
最初の七日目をむかえる朝に寿命は半分になる。その次の三日が過ぎるとさらに残りの命が半分に削り取られてしまう。次の二日、またその次の一日、その次の・・・。時間が過ぎていく度に残りの命が半分になっていく。寿命は限りなくゼロに近づくが、ゼロになることはない。
殺風景で荒涼とした場所に、たった一軒、酒場のような店がある。金貨は、その店で渡されることがある。テーブルに何人かの客があつまっている。そこに店の女主人が顔を見せる。妖艶で、どこか人間ばなれした容姿。女主人はテーブルの上で金貨を見せると、客を促して窓に近づく。窓はステンドグラスで装飾されていて、外は見えない。女主人はおもむろにステンドグラスを割ってしまう。すると、ガラスの間にぎっしりと詰め込まれていた金貨があふれてこぼれ落ち、何枚かが床に転がった。

「削り取る時間がゆっくりすぎやしないか?」
どこかから、微かに男の声が聞こえた。

「みんな、この金貨に手を出しちゃいけない」
自分の心の中で声が響く。

2010/02/11

水の街路


(July 2007, Amsterdam, Nederland)

街角を曲がると、50あまりある運河の一つに出会い、500あまりある橋の一つが目に映る。
並木は左右に途切れることなく続き、切妻屋根の家並みが水の街路に映し出される。木々は路を美しくし、街歩きを庭園の散歩のように楽しい時間にしてくれる。

2010/02/07

Mt.Fuji sunset


(Feburary 2010, Mt. Fuji, from Tokyo, Japan)

今日の日の入りは特別な美しさだった。
陽が沈んでからの数分間、空の輝きは息をのむほど美しい。
東京ではこの週末、日没のダイヤモンド富士になる。
一年にたった二回だけの空からのプレゼントだ。

Mt.Fuji



(February 2010, Mt. Fuji, from Tokyo, Japan)

娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。
だまって空を指さした。見ると、雪。
はっと思った。富士に雪が降ったのだ。
山頂が、まっしろに、光かがやいていた。
御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。

        太宰治「富嶽百景」より

朝の光


(February 2010, Tokyo, Japan)

朝の光が地球をめぐり
すべての生命を新しくしていく。
いま、朝の光はこの街を走りぬける。
地平線の向こうの街に
新しい朝をとどけるために。

2010/02/06

デザインの未来


(February 2010, Tokyo, Japan)

むかし、ウェンディ・キャンベル・バーディーは、モロッコで木を植えはじめた。
四年後、彼女が植えた木は高さ4フィートに成長し、木々がシェルターをつくっていた。シェルターの中の空気は適度に湿り、小麦が育つようになった。
その後、彼女はアルジェリアにわたり、木々のシェルターで緑の壁をつくるためにはたらいた。その中で小麦や果樹、野菜を育てようとした。
本当に必要な人たちに、なくてはならないものをとどける。その夢が彼女をつきうごかし、彼女に力をあたえた。
デザインには大きな未来がある。
ウェンディ・キャンベル・バーディーの挑戦は、地球を癒すという、デザインの未来のビジョンを示唆するものだった。

2010/02/05

青い鳥


(January 2010, my place, Tokyo, Japan)

チルチルとミチルは、青い鳥を探しに旅に出ました。
「思い出の国」に青い鳥がいると聞いて見つけにいきました。
「幸福の国」にも青い鳥がいると聞いてたずねていきました。
そして二人は「未来の国」にも青い鳥をさがしにいきました。
でも、青い鳥はどこにもいませんでした。

目を覚ますと、二人は自分たちのベッドの中にいました。
二人は、ついに青い鳥を見つけることができませんでした。
そのとき、ふと鳥かごを見ると、中に青い羽が入っていました。
そうでした
いつも二人と一緒にいてくれたあの鳥こそ青い鳥だったのです。

2010/02/03

節分



(August 2007, shizutani gakko, Bizen, Okayama)

節分。
豆まきをしましょう。

大切な人にとどくように
内にも外にも
そして
世界にしあわせが巡りますように。

2010/01/27

十三夜月


(January 2010, Tokyo, Japan)

十三夜月。

古くから縁起が良い月として愛された。
古代の日本人は、好んでこの月のもとで宴をはったという。
ひときわ冴えた透けるような光。
日本の美意識を感じた瞬間。
英語ではGibbous Moon。

2010/01/26

氷に覆われていた頃


(December 2004, Patagonia, Chile)

(January 2005, Patagonia, Argentina)

氷の大地。人類がつくったものは見当たらない。
すでに仲間が大勢きている。大地にはペンギンがたくさんいる。
私は若い女性と一緒にいる。肩くらいまでに揃えた髪。落ち着いた声。

「めずらしい生き物がいるわよ。ほら、あそこよ。」

よく見ると植物のかげに光沢のある黒い玉が動いている。ビー玉よりも少し大きい硝子のような玉がいくつか繋がって動いている。
足下に小さな恐竜が走って来た。手のひらくらいの大きさで紫をおびた青い色をしている。目の前でさかんに動き回って、何かアピールしている。その仕草が面白くて写真を撮る。すると、恐竜はいろいろなポーズをとり始めた。

「これ、細くて食べるところがなさそうね。」
「むこうはこっちを食べるつもりかも知れない。」
「けど、脚の関節を外せば身がとれそう。」

集まってきた仲間の雑多な声が聞こえる。
にわかに、恐竜の目に警戒の色がうかぶ。

2010/01/25

虹を贈った少女


(December 2004, Patagonia, Chile)

群衆が森の広場に集まっている。
数えきれない小枝と葉っぱが空にかかげられている。
大勢の人が小枝を手に持ち、空に向けている。
小枝のひとつに小さな虹が架かった。
「虹が出た!」
人々の中に喜びの感情が伝わる。

「あなたの葉っぱに虹が生まれるよ」
隣の人が話しかけてきた。
「ほんと?」
聞きかえして、両手いっぱいの小枝を見た。
すると、周りから
「虹!」
という声が聞こえた。
左手にもった葉っぱに淡く小さな虹が生まれていた。
その刹那、まだ見たことのない少女の顔が脳裏にうかんだ。
その少女にこの虹をあげたいと思った。

江戸切子


(January 2010, my place, Tokyo, Japan)

江戸時代に日本橋で生まれた江戸切子。
色硝子に描かれた絵柄を砥石で丹念に削っていく。
硝子の器を手に持ち、右に左に回転させ、傾けながら薄い曲面の硝子を削る。
出来上がった器は宝石にように美しい光をまとっている。
匠の技の素晴らしさをあらためて思う。

2010/01/24

伸びる


(November 2009, Gunma, Japan)

広びろとした空
悩みなどない空の中で

2010/01/21

幻影


(January 2005, Conha y Toro, Santiago de Chile, Chile)

恐れは幻影に似ている。
一歩を越えれば、それは去って行く。
一歩をためらえば、それは離れない。

2010/01/20

出口


(January 2010, Nasu-shiobara station, Tochigi, Japan)

出口を選ぶとき、ボクたちは、その先に待ち受けている世界を選んでしまったことになる。出口は、やさしくボクたちを手招きしているけど、何もおしえてくれない。でも、そこは出口だから、外に出たければ、どうしても一つ選ばないといけないんだ。こうして、ボクは昨日も、その前の日も、もっともっと前の日も選ばなければいけなかった。

そして、あの日がきた。

あの日、選ぶはずのなかった出口が、ぽっかり口を開けてボクを待っていたんだ。気がついたらボクはころげ落ちていた。顔が傷だらけになった。顔についた泥を腕で拭って見上げると暗闇の先に空のあかりが見えた。這い上がろうとした。できるはずだった。ボクはそこから出たくて、朝まで、ずっとずっと考えた。
だけど、戻らなかった。
ボクは、転がり落ちたことを無理やり信じ込むことにしたんだ。
そして、そのとき、ボクの中で何かが壊れる音がした。

今日もたくさんの出口があった。そのひとつの出口の先に明日の出口が沢山があって、明日のあしたにも、その向こうの明日にも出口がある。ボクのまわりは出口だらけ。なのに、足あとはいっこだけ。

2010/01/19

出会い


(January 2010, Tochigi, Japan)

願っていた出会いはすでに起きていたんだ。
それは人生の中に訪れた奇跡の瞬間だった。

gold crescent moon


(January 2010, Tokyo, Japan)

低い軌道を回り、三日月は地球の裏側に過ぎようとする。
地平線に近づくと月の表面はしだいに赤みをおびてくる。
そして漆黒の夜に黄金色のクレセントが浮かび上がった。

2010/01/18

夜の顔も


(January 2010, The Tokyo Tower, Tokyo, Japan)

素顔のままが好きだ。
大人っぽい顔も好き。

2010/01/17

繊月



(January 2010, Tokyo, Japan)

月齢1日目の月。
太陽を追いかけて早々と西の地平線に沈んでいく。
月には謎が多い。
一体どのようにして誕生したのか、誰も知らない。

2010/01/16

目が覚めたとき


(January 2010, Tokyo, Japan)

夜が明ける頃、冷たい空気の中を歩いていた。
澄みきった大気の向こうに雪化粧した山並みが美しかった。
目が覚めたとき、西に沈む陽に空が染まり始めていた。
印象派の絵のように鮮やかで、にじむように色が重なり合っていた。

2010/01/11


(November 2009, Ginza, Tokyo, Japan)

 NHKハイビジョンで「モーニング・グローリー」という雲の特集番組を見た。明け方に現れる巨大な雲。長さ数百キロの帯状の雲が回転しながら大空を通り抜け、陽の光の中で消えていく神秘的な現象が紹介されていた。
 この映像を見て、昨年の11月20日に東京の空を覆った不思議な雲を思い出した。幾重にも連なる帯状の雲が空一面を覆った。それらの雲は西方の重く巨大な雲の塊から次々と生まれ東に動いていた。そして銀座の上空を過ぎたあたりで綿菓子のようにかき消えていった。


(September 1996, Divisadero, Estado de Chihuahua, Mexico

 これまでに見た雲でもっとも劇的だったのは、メキシコのDivisaderoで目撃したものだ。1996年9月の日没間際だった。東の空にわき上がる巨大な積乱雲を突然、強烈な陽の光が貫いた。空には光を遮る何ものもなかったはずだったが、説明不可能な光が雲の一点を貫き、雲はオレンジ色に燃え上がった。まるで雲の中で爆発が起きたかのような強烈な光だった。

 「待っていても出会えないこともある。しかし、待ちつづけなければ決して出会うことはできない。」これは番組の中で印象に残った言葉だ。この言葉は自然現象について語るなら、まさにそのとおりだし、人生の出会いについても真実なのだと思う。

2010/01/10

夕映え


(January 2010, sunset, Tokyo, Japan)

17時15分。
鮮やかな夕映え。燃えるようなオレンジと天頂の青が融け合う。

夢 1/10/'10



(July 2006, au Lapin Agile, Paris, France)

 何人かで映画に来ている。「きみ」と一緒にいる。仲間の中にF氏がいる。他の人の顔は見えない。上映時間が長くインターミッションになる。映画館の外に出る。簡単な造りの建物(シネコンが入っているモールのような感じ)。フロントに広いパーキングがある。外はすっかり日暮れている。街灯りは少ない。
 ホラー映画のようだった。なんの変哲もない、たいくつなストーリーだった。パーキングを歩きながら「きみ」が話しかけてきた。「休憩が終わっても映画に戻りたくない。恐ろしくて。」F氏は続きを楽しみにしているようだった。他の仲間も映画に戻るつもりのようだ。「きみ」の言葉は思いがけなかったが、私も映画に戻らないことにした。

 長い休憩時間だった。映画に戻らないつもりで歩いていると、皆もついてくる。信号のある交差点から少し入ったところに、ハイチスタイルのカフェを見つけた。映画が終わるまで時間をつぶすのにいい。そう思っていると、皆が大通りに向かって戻って行くのが見える。皆は通りを渡り始め道路の真ん中で止まった。車線に沿って一列に並ぶと、「きみ」は「思いきってやってみよう」と声をかけ、車線の上を車と逆走し始めた。皆も恐るおそる小走りになる。私は、側にいる友人の警察官に急いでホイッスルを鳴らすように頼む。彼はなぜか躊躇している。ためらいながらホイッスルを口にするがうまく音が出ない。二度三度と鳴らしてようやく音が届く。笛の音に皆が立ち止まり向きを変えて整列する。

2010/01/09

Georgia O'keeffeの言葉


(January 2010, Georgia O'keeffe, from my book)

 In school I was taught to paint things as I saw them. But it seems so stupid!
If one could only reproduce nature, and always with less beauty than the original,
why paint at all?

 Nothing is less real than realism. Details are confusing. It's only by selection,
by elimination, by emphasis that we get at the real meaning of things.

1922
Georgia O'keeffe


(July 2001, Ranchos Church, Taos, New Mexico, USA)

January 2010, Ranchos Church, from my book)

2010/01/08



(January 2010, my place, Tokyo, Japan)
 今から15年前、輪島の漆芸家、一后さんが店の奥から
 桐の箱を運んできた。紐を丁寧に解いて、桐の蓋を開
 けると美しい山吹色の布の包みが五つ納められていた。
 その一つ一つを大切そうに広げると、深い朱の盃が姿
 を現した。金箔でつくられた蟹が五つの盃の上を渡っ
 ていくように描かれている。
 「これは売り物じゃないんだけどな、おまえにこれを
 譲ることにした。俺の最後の作品だから大切にしろ。
 仕舞っておかないで使え。それから箱を大事にしろ。」
 そう言うと、俺はもう二度と作らないから、と一言加
 えて、私の肩をポンっとたたいた。

 秋田県の大森町は雄物川沿いの小さな町だ。町の中心に小高い山があり、裾野一帯は桜の名所として知られている。雄物川に面して母の実家があった。子どもの頃、毎年のように大森で過ごした。夏の花火に冬のかまくら。毎日のように雄物川に出かけた。雄物川には不思議な言い伝えが多かった。
川の中で、女性の髪のように長く揺らめいている気味悪い水草に目が釘付けになった。

 家は雪国特有の急勾配の屋根。高窓の下の広間に囲炉裏を囲んで家族が集まった。広間の隣に土間の台所、土間は奥の風呂場と蒔置場につづいていた。風呂場の奥には昔、厩があったが、既に馬や牛はいない。そこは祖父の作業場になっていた。祖父はそこでどんなものでも作ってくれた。幼い自分にとって、祖父は魔法使いだった。
 家の中はどこに行っても暗かった。見上げると、そこは光の届かない闇だった。柱、梁、軒裏や板張りの床、すべてが黒光りしていて、わずかな光が艶かしく、恐ろしげに映り込んでいた。だいぶ時が経ってから知ったことだが、その家は総漆塗りの家だった。柱や床だけでなく、日常で使われていたお椀や箸も漆塗りだった。
 
 日本のことを英語で「Japan」と呼ぶ。誰が名づけたのだろう?「漆」のことを英語で
「Japan」と書く。漆は自分にとって、もっとも日本を感じさせる物の一つだ。正月にお屠蘇を漆の杯で口にする。お酒は漆に触れると魔法のように柔らかくなる。漆器は物の味を変えてしまう不思議な器だ。
 漆には素晴らしい効能もある。漆器の中で食品を保管すると持ちがよい。漆は天然の抗菌剤であり防腐剤だ。試みに漆器の中にゆでた蕎を入れてみた。樹脂で作られた容器に入れた蕎と比べて瑞々しさが長持ちする。それだけではない。漆は部屋の空気をきれいにするらしい。漆器で囲まれた部屋の空気は凛としている。
 漆は美しいだけでなく、日常生活で役立つさまざまな効能を秘めた可能性の材料だ。先人の漆の使い方、使われていた場所を見直してみると、新しい天然の技術が生まれてきそうだ。

2010/01/07

下弦の月


(January 2010, Tokyo, Japan)

 新月から22日目の月。「二十三夜月」とも呼ばれる。今朝は西の明るい青空の中にあり、その透明な青さが神秘的だった。宇宙から見たときの地球もこんな感じなのかな。美しい。和名では別名「弓張り月」。英語では「Half Moon」。

2010/01/06

稲荷神社



(January 2010, Basho-inari shinto shrine, Tokyo, Japan)

 東京の門前仲町から深川にかけて、多くの神社がある。深川七福神を巡る道は人の流れが絶えることはない。
 神を訪ね歩く道の途中に芭蕉稲荷神社がある。間口二間足らず、奥行きも二間程のこじんまりとした神社だ。午後のやわらかい光に赤と緑のコントラストが美しく、思わずシャッタ−をきった。後になって、お参りも忘れて写真を撮ったことにばつの悪さを感じて、神社に戻ってお参りした。鳥居をくぐり、鈴を鳴らす。賽銭箱に五十円硬貨を入れて今年の抱負をお伝えした。
 稲荷神社は日本の町の至る所で見かけるが、注意を払って見たことはなかった。
狐さんが鳥居の両側、左右に対になって鎮座している。正面向かって右側の狐さんは子狐を抱え、左側の狐さんは玉のようなものを転がしている。このことが気になって、すぐ側の正木稲荷神社の狐さんを見ると、同じことになっている。どういう意味があるのだろう。どこの稲荷神社も同じなのだろうか。明日からは稲荷神社の前を通る度に狐さんに目がいきそうだ。

2010/01/05

ムスカリの青


(May 2009, my home town, gunma, Japan)

 まだ年が明けたばかりなのに、春を近く感じる。あと一ヶ月も過ぎると雪の中でムスカリが芽を出す。雪解けの頃には、庭の斜面は
ムスカリの葉で一面が覆われ、明るい若草色に染まる。庭の色はスノーホワイトから若草色に、そして鮮やかな青紫色にかわっていく。もうすぐ、自然はいっせいに彩づき始める。
花言葉 通じ合う心、明るい未来

2010/01/04

鬼門


(December 2009, a certain Japanese residence, Tokyo, Japan)

 正月になると方位の話題が多くなる。初詣に出かけると、境内に方位について書かれたものが目につく。その多くは九星気学に基づく方位についてだ。今年は八白の星が中央にきているため、二黒土星、四緑木星、五黄土星の星回りが良くない場所に入っている。

 気学の方位になると少々難しくなってしまうが、巷でよく知られている方位に鬼門がある。鬼門は古代中国の都、洛陽にその起源があると言われている。
洛陽の冬は東北から冷たい風が吹き込む。その寒風を防ぐために都の東北方位を塞いだのが鬼門だった。ところで、日本ではいつごろから鬼門のことを気にするようになったのだろう。古来、日本人にとって、己の都合で土地を動かすことは自然に対して恐れ多いことであったようだ。そのため、土地を動かす前に神にお伺いをたて、お断りすることが欠かせなかった。今でも田舎の方に行くと、屋敷の中に祠を見つけることがある。神、自然への畏敬の念を表わすために屋敷内に国津神を祀った跡だ。この国津神を祀った場所が鬼門の起源といわれる。

 鬼門は中国と同じく東北方位にある。日本人は、日常の不浄が神から見えないよう、鬼門の方位を塞ぎたかったし、
蒸し暑い夏はできるだけ開け放せるよう、家は開放的なつくりにしたかった。そこで、彼らは神を東北の方位に祀ることにし、この方位を鬼門とした。要領のよい祖先だと思う。

2010/01/03

忘れていたこと


(November 2009, my home town, Gunma, Japan)

 そこは日本ではないようだった。暖かな陽が森に射し込んでいる。森の木々の向こうに青い空が広い。遥か水平線の先から穏やかに吹いてくる海風が心地よい。森の小径を歩くと小さな菜園があり、平屋の住宅が見える。
 私は新しい住宅の提案を届けるために、そこに向かっている。A1サイズほどの大きさのモデルを携えて住宅に入る。他に二名の建築家が提案を届けに来ていた。二人の顔は見えない。三つのモデルが並べられた。私のモデルは白い紙でつくられていて、完成した
住宅の姿を表現している。他の二つのモデルはいずれも完成していない。二人ともlegoのようなブロックで一部だけ組み立てている。
 見ていると、二人のうち一人が話しかけてきた。「最初はつくれるところだけ造ればいい。後から付け足せばいいし、ほら。」彼は話しながらブロックをつけたり、外したりしている。「そうだよな、子どもの頃はいつもそうしていたな。」私は大切なことを思い出したような気がしていた。

2010/01/02

ゼラニウムの発明



(January 2010, my place, Tokyo, Japan)

 ゼラニウムの花びらに水滴がのっている。美しい銀色の光をとじこめ、まるで宝石のようだ。水滴は完全な球形をしていて、すぐにでも転げ落ちそうに見える。花びらの上にはいくつもの水滴がのっているのに、花びらは濡れていない。
 写真を撮ると、そこにあるものが見えるようになる。よく観るとゼラニウムの花びらの表面に微細な凹凸がある。この凹凸が水滴を寄せ付けず、水玉を球形に保っている。水玉は花びらの上を転がりながら塵や埃を吸い付ける。転がり回った後に埃と一緒に落ちていく。雨が降るたびに、花びらの上を水滴が転がりクリーニングしていく。
 自らは動くことが出来ないゼラニウムの花は、考えに考え、気の遠くなるような時間をかけて偉大な発明を完成させた。ジッとしていれば自然が体を洗ってくれる仕組みを考えつき、体を進化させた。花だから濡れた顔になるのはイヤだったし、いつもキレイにしていたかった。そして、その願いは実現した。
 自然には発明が満ちている。その気になれば学べることは山のようにある。自然はいつでもワクワク、キラキラしている。

あの惑星で起きたこと


(July 1987, Death Valley, Nevada, USA)

 あの日、夢の中で起きたことは何だったのだろう。あの惑星では誰も言葉を交わしていなかった。そもそもそこは惑星だったのか?
 そこでは誰も話をしていない。音の存在しない世界。唯一、「きみ」を呼び止めたときに自分の声を聞いたような気がする。しかし、その声に振り向いたのは「きみ」だけで、他の誰ひとり気にかける人はなかった。おそらく、他の誰にも「声」は存在していなかった。
 音の無い世界にあって、「声」は別次元の世界の産物なのかも知れない。その世界では「声」は聞くことも見ることも出来ない異物なのだ。「声」の代わりに、そこでは、直接、意識に伝わる何かが
飛び交っている。
 夢はどのように形づくられるのだろう?あの日、夢の中でみたことは過去の記憶からではなく、どこか遠い未来で起きたことのような気がするし、パラレルワールドを垣間見てしまったような気もする。