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(January 2005, Los Glaciares National Park, Argentina)
世界はみんなのこころで決まる
世界はみんなのこころで変わる
谷川俊太郎の言葉より
(December 2004, Buenos Aires, Argentina)
百日間、君の窓の下で待つ。
気持ちが変わったら窓を開けて。
それだけでわかるから。
一日、二日、十日がたった。
彼は雨の日も、風の日も、そして雪の日も立ち続けた。
九十日が過ぎ、彼は痩せ細り目からは涙が滴り、
視る力もなくなっていた。
そんな彼を、彼女はずっと、部屋の中から見守っていた。
そして、九十九回目の夜が明ける前、彼は立ち去っていった。
メキシコで聞いた物語より
(March 2003, Okinawa, Japan)
「あおい貝は、その殻からは想像もできないような生涯を送る。それは、実際に子どものための揺りかごとなり、母のあおい貝は、これを抱えて海の表面に浮かんでいる。そこで、卵が孵り、子どもたちはやがて泳ぎ去り、母親のあおい貝も殻を捨てて新しい生活を始める。・・・美しい貝で、それが想起させるものもまた美しい。」Anne Morrow Lindberghがその著書「GIFT FROM THE SEA」で綴った美しい一節。
2003年の春にあおい貝を一度だけ見た。古代帆船の帆のようにおおらかに描かれた弧、繊細で建築的な造形。淡く透明な緑色が美しく、しばらくその前から動けなかった。
いつか、あおい貝を海辺に探しに行きたいと思い続けている。冬になると日本海岸に漂着するらしいから。
(January 2005, Torres del Pine, Patagonia, Chile)
突然の猛烈な風に岩壁の雪が渦を巻いて舞い上がった
登山において最も恐ろしい出来事は雷との遭遇だ。山岳では想像を超えた雷が出現することがあり、そんなとき、私たちは身を守る術がない。地電流や球電はその一つだ。球電は直径二十センチ程の大きさの球状の雷だ。オレンジ、黄色、赤、青など様々な色が観察されている。わずか、秒速2〜3メートルで空気中をふわふわと浮遊するように移動する。
1979年の春、山岳史でたった一度、この球電が記録される出来事が起こった。雷雨を避ける人でごった返す山小屋に突如球電が現れ、軒下の外壁に直径50センチの穴を開けて室内に侵入した。球電はそのまま、三つの部屋を通り抜けると、天井をぶち抜いて去っていった。この間に十一人が感電した。球電は音も立てずに消え去ることもあれば、瞬時に爆発を起こすこともある。人に触れても傷跡も残さないこともあれば、爆発し人を死に至らしめることもある。
(October 2009, my place, Tokyo, Japan)
退廃した都市のシルエット、極彩色で彩られた廃墟的なイメージ。映画「ブレードランナー」に描かれた2019年の未来都市ロサンゼルス。「ブレードランナー」は人類の未来を予見することに成功したかに思われた。しかし、いまや、そこに描写された未来は永遠に訪れそうにない。世界は大きく変わろうとしている。変わりゆく未来のイメージの中に、もはや「ブレードランナー」を見つけることはできない。
過去が変わることはないが、未来への道は無数にある。私たちは日々、道を選択し続け、ひとつ一つの選択によって、その選択につながった瞬間の未来が立ち現れている。
予見された未来が訪れることはなかった。しかし、ただ一つ、追跡者デッカードとレプリカントのレイチェルの間に芽生えた感情だけは、人間の心について、何ものかを予見しているような気がする。
(January 2005, Strait of Magellan, Punta Arenas, Chile)
人類が空を飛んだり、海の中に潜ることなど夢にも思わなかった頃、ほんの一握りの人間だけがちがっていた。彼らは川や入り江に出会うと、そこに漕ぎ出してみたいと思った。そこにあったのは、丸太や草舟の類いだった。それらを繋ぎ合わせてみると筏が生まれた。岸伝いにおそるおそる漕ぎ出してみた。やがて筏は岸から離れ、最初の舟が誕生した。舟は徐々に彼らを遠くに運ぶようになり、いつしか、より大きくなり船になった。船が彼らを大海原に運んだとき、彼らは世界を知る最初の人間となった。
(January 2005, Gray Glacier, Argentina)
地球は水の惑星である。水は生き物たちの住みかであり、生命そのものだ。地球は水を循環させることで豊かな生命を育んできた。
生命とそれを支える食料生産、都市の産業などあらゆる活動が水に依存している。そして、急激な人口増加によって、水需要は増大の一途をたどり、さらに大量に水を供給することをせまられている。国際食料政策研究所所長、パー・ピンストラップ・アナーセンは、今後四半世紀以内に五カ国に一カ国の割合で水不足に直面する可能性を指摘する。また、水の需給に加えて人類が直面するもう一つの水問題は、利用可能な水の質の低下である。土壌中への化学物質の浸出、生産施設からの排水、生活排水中の過剰な栄養分とそれを栄養源とする藻類、微生物の繁殖。こうして質の低下した水を飲料水に変えるために、膨大な費用が必要になっている。
水の需要の増大にどのように応えていったらよいのだろうか?帯水層の地下水という、かけがえのない水資源を枯渇させないためには、どのような取り組みが必要なのだろうか?水を希少な資源ととらえ直し、水を再生産し循環させていく仕組みづくりを急がないといけない。
(February 2007, Brussels, Belgium)
現実と可能性の間には本質的な差異はない。
可能性を現実に変えるには精神的な努力さえあればよいのである。
これは音楽においてはまさしく真実である。
そして、私は時々、これが人生においても真実であってくれたらと思う。
「音楽に生きる」ダニエル・バレンボイム自伝 より
(September 2009, a certain cafe, Tokyo, Japan)
ひとはささえあって人になる。
一緒にいるひとに安心してよりかかるのがいい。
それでつながり合っていく。
そのことをあの日、きみがおしえてくれた。
(October 2009, my place, Tokyo, Japan)
サンソン・フランソワの弾くラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。
このピアノの音色の中にいると、いろいろな想いがやってくる。今のこと、通り過ぎたはずの日のこと、そして、もしあるとすれば、自分がこの世界に生まれてくる前に決めてきた選択の意味について。
「亡き王女」は誰だったのか?ラヴェルはついにその名を語ることはなかった。一説には、ヴェラスケスが描いたスペイン王女の絵画から着想を得たと言われている。ただ、自分には、ラヴェルと同じ時間の中で生きた人のような気がする。これほど美しい詩情を思いびとの他のために書けるだろうか。言葉にできない熱情。
それをパヴァーヌにするしかなかったのではないか。