2010/01/08



(January 2010, my place, Tokyo, Japan)
 今から15年前、輪島の漆芸家、一后さんが店の奥から
 桐の箱を運んできた。紐を丁寧に解いて、桐の蓋を開
 けると美しい山吹色の布の包みが五つ納められていた。
 その一つ一つを大切そうに広げると、深い朱の盃が姿
 を現した。金箔でつくられた蟹が五つの盃の上を渡っ
 ていくように描かれている。
 「これは売り物じゃないんだけどな、おまえにこれを
 譲ることにした。俺の最後の作品だから大切にしろ。
 仕舞っておかないで使え。それから箱を大事にしろ。」
 そう言うと、俺はもう二度と作らないから、と一言加
 えて、私の肩をポンっとたたいた。

 秋田県の大森町は雄物川沿いの小さな町だ。町の中心に小高い山があり、裾野一帯は桜の名所として知られている。雄物川に面して母の実家があった。子どもの頃、毎年のように大森で過ごした。夏の花火に冬のかまくら。毎日のように雄物川に出かけた。雄物川には不思議な言い伝えが多かった。
川の中で、女性の髪のように長く揺らめいている気味悪い水草に目が釘付けになった。

 家は雪国特有の急勾配の屋根。高窓の下の広間に囲炉裏を囲んで家族が集まった。広間の隣に土間の台所、土間は奥の風呂場と蒔置場につづいていた。風呂場の奥には昔、厩があったが、既に馬や牛はいない。そこは祖父の作業場になっていた。祖父はそこでどんなものでも作ってくれた。幼い自分にとって、祖父は魔法使いだった。
 家の中はどこに行っても暗かった。見上げると、そこは光の届かない闇だった。柱、梁、軒裏や板張りの床、すべてが黒光りしていて、わずかな光が艶かしく、恐ろしげに映り込んでいた。だいぶ時が経ってから知ったことだが、その家は総漆塗りの家だった。柱や床だけでなく、日常で使われていたお椀や箸も漆塗りだった。
 
 日本のことを英語で「Japan」と呼ぶ。誰が名づけたのだろう?「漆」のことを英語で
「Japan」と書く。漆は自分にとって、もっとも日本を感じさせる物の一つだ。正月にお屠蘇を漆の杯で口にする。お酒は漆に触れると魔法のように柔らかくなる。漆器は物の味を変えてしまう不思議な器だ。
 漆には素晴らしい効能もある。漆器の中で食品を保管すると持ちがよい。漆は天然の抗菌剤であり防腐剤だ。試みに漆器の中にゆでた蕎を入れてみた。樹脂で作られた容器に入れた蕎と比べて瑞々しさが長持ちする。それだけではない。漆は部屋の空気をきれいにするらしい。漆器で囲まれた部屋の空気は凛としている。
 漆は美しいだけでなく、日常生活で役立つさまざまな効能を秘めた可能性の材料だ。先人の漆の使い方、使われていた場所を見直してみると、新しい天然の技術が生まれてきそうだ。